フォルトゥナ・デュッセルドルフ 日本デスク
瀬田元吾(せたげんご)氏

僕が渡独したのは2005年1月、24歳の時でした。高校時代のサッカー部の恩師から「ドイツに行くならここに行け」と渡されたたった1枚の名刺を頼りに降り立った街、デュッセルドルフ。

デュッセルドルフ; 出典: © Germany Travel

あれから13年。サッカークラブ「フォルトゥナ・デュッセルドルフ」で“日本デスク”となり、宇佐美貴史選手や原口元気選手という素晴らしい日本人選手たちをW杯2018に送り込むことになるなど、当時は想像もしないことでした。

1990年のW杯で優勝した西ドイツ; 出典: Wikipedia CC BY 2.5

とはいえ、物心ついた頃からサッカーを始め、『キャプテン翼』を夢中で読んでいた僕はその中でとても強靭国として描かれていた西ドイツに強い憧れを抱いていました。さらに1990年にはW杯で優勝した西ドイツ。その憧れがより確かなものとなり「いつか世界で一番強い国に行きたい」と思いました。僕が9歳の時です。思えば、僕とドイツのつながりはそこから始まっていました。

Image;出典: Pixabay CC0

小学1年生から入ったサッカースクールに始まり、とにかく学生時代はサッカー三昧で、大学もサッカーの名門校・筑波大学に進学。就職活動は一切せず、蹴球部で「サッカーでどこまで勝負できるか」に賭けました。卒業後も、アマチュアリーグではありましたが群馬FCホリコシというチームでサッカーを生業とする道を選びました。

しかしここではJリーグから“落ちてきた”選手たちと大差のない自分の実力を目の当たりにする日々。怪我もあり思うように試合にも出られないままチームから解雇されたのが24歳の時でした。もうJリーガーにはなれない…。引退も考えた時にフツフツと湧き上がったのが子どもの頃から抱いていた「ドイツでサッカーをしたい」という思いでした。

チューリッヒのFIFA本部; 出典: © FIFA

その頃、ドイツのナショナルチームのFIFAランキングは19位。周囲からは「なぜ今ドイツ?」と言われましたが、子供の頃からの強い憧れに加え、1年半後に控えていた2006年のワールドカップを直接、自分の目で見て肌で感じたいという思いがありました。アマチュアでもいいからドイツでサッカーをしたい。そして、今から行ってドイツ語ができるようになれば、W杯の頃にはサッカービジネス関連の仕事も回ってくるかもしれない。それなら1年半という時間を自分に与えよう! ドイツに行く決心が固まりました。

デュッセルドルフ空港; 出典: Pxhere

「とにかく精一杯サッカーをする」「2006年W杯までにドイツ語を習得する」― 僕はこの2つの目標を胸に、誰も知る人のいないドイツに渡りました。自分がプレーできそうなチームを調べては、“Ich möchte Fußball spielen.“(サッカーをしたい)と覚えたてのドイツ語を呪文のように唱えながら、スポーツバック片手にいくつものチームを回りました。「明日また来い」と評価されることもあれば、門前払いを食らうこともあったり。断られたらその日のうちに別のチームを当たったりもしました。

毎年盛大に行われるデュッセルドルフのカーニバル; 出典: Wikipedia CC BY 2.0

まだドイツに行って間もない頃、ちょうどデュッセルドルフ名物のカーニバルがありました。いきなり街全体がストップして、厳格で生真面目だと思っていたドイツ人がみんな仮装してふざけて呑んだくれて…。ドイツ人ってこんなに陽気だったのか、とドイツ人のイメージがいい意味で崩れた瞬間でした。

ヤーパンタークで賑わうデュッセルドルフ; 出典: Wikipedia CC BY 4.0

また、デュッセルドルフにはドイツ最大の日本人コミュニティがあり、滞在が進むうちに日本人ホビーチームの週末練習にも参加させてもらえるようになりました。するとありがたいことに、僕を応援してくださる方が出てきたり、現地のサッカークラブと話をする時に通訳をしてくださる方もいたり…。いろいろな方からのサポートを受け、日本人コミュニティを持つデュッセルドルフならではの温かさにはすごく助けられました。

出典: © 瀬田元吾

そして最後にたどり着いたのが、デュッセルドルフをホームタウンとする「フォルトゥナ」のセカンドチーム。1ヶ月半ほどの練習参加の末、ついに正式にチーム加入が決まりました。監督室に呼ばれてフォルトゥナの真っ赤な練習着を渡され、それに着替えだした時、それまで一緒に練習していたチームメイトたちがワーッと寄ってきて「お前良かったなー!」と喜んでくれて…。

フォルトゥナ・デュッセルドルフ; 出典: Pixabay CC0

それまでもトライアウトを受けていく中で仲良くなる選手もいましたが、決して「自分のチーム」と思えた時はなく、初めて“本当の仲間を得た”と感じた瞬間でした。あの時の達成感はとても大きかったです。さらにその3日後の公式戦ではスタメンとして出場し、勝利。地元紙には「日本人が勝利に貢献」と書かれたりして、「自分はこれをやりに来たんだ」と胸が熱くなりました。

フォルトゥナのセカンドチームは当時、5部リーグに所属していた時期とはいえ、トップチームは5万人以上を収容する巨大アリーナをホームスタジアムに持つ、人口60万人の都市デュッセルドルフを代表するプロクラブ。ここに受け入れられたことの安堵感は大きかったです。自分を知る人が誰一人としていない中で、言葉も通じない中で、自分の足一つで評価してもらえた。「ドイツに行ってサッカーやるんだ」と啖呵を切って日本を出てきてから半年、ようやく自分の力で手にした「自分の居場所」でした。

Karl-Heinz “Charly” Meyer 2011; 出典: © F95

そして実は、高校時代の恩師から手渡された一枚の名刺の人物とは、カールハインツ・マイヤー (Karl-Heinz Meyer) さん。愛称 チャーリー (Charlie) の名で親しまれたマイヤーさんは、フォルトゥナの元会長であり、長年に渡って、フォルトゥナのチーム力向上と日独のサッカー交流に寄与した方でした。マイヤーさんは、僕がフォルトゥナに入る時も、後にフロント入りのためにフォルトゥナに再アタックした際にも、肝心な局面でいつも力になって下さいました。生涯をかけてサッカーを愛し、日独サッカーの架け橋となったマイヤーさんの生き様には僕も少なからぬ影響を受けています。

フォルトゥナ・デュッセルドルフの巨大アリーナ; 出典: © Esprit Arena/Ansgar M. van Treeck

フォルトゥナに入って半年、最初の数試合の後は、出場機会に恵まれず、さらに怪我を負ってリハビリに取り組む毎日。その頃、日本人コミュニティの方からの紹介で、チェコ1部リーグで活躍するプロサッカークラブでのトライアウトのチャンスを得ました。焦りを感じていた僕は、プロになる可能性があるなら、とフォルトゥナを一度退団し、チェコに渡ったのですが結果は「サテライトチームでの契約なら」というものでした。背水の陣で挑んだ挑戦に失敗し、ドイツに戻ってきた僕は完全に「燃え尽き症候群」に陥っていました。

ドイツに来て1年半。自分の決めたリミットが来たのに、強みと言えるほどドイツ語も上達していない現実。今日本に帰っても「1年半、何となくドイツでサッカーを頑張ってた子」で終わってしまうという不安。そんな頃、僕にとって一つの転機が訪れました。2006年ドイツワールドカップです。

2006年に行われたドイツW杯; 出典: Wikipedia CC BY-SA 3.0

当時、世界のサッカー界から「時代遅れ」と軽視されていたドイツが、見事なインフラとオーガナイズで整然とワールドカップを切り盛りし、ナショナルチームも3位という結果を出し、国民がものすごく熱狂するのを目の当たりにしました。外国からの観衆へのおもてなしも一流で、ドイツサッカーは「時代遅れ」どころではなく、実は学ぶことの“宝庫”だということに気付いた僕は、日本人としてドイツサッカー界がどんな改革をしているのかについて誰よりも理解している人間になりたいと思うようになりました。

もともと将来はスポーツマネジメントの方向に進むことを考えて、筑波大学でも体育スポーツ経営学を専攻していたので、ヨーロッパで屈指のドイツサッカープロリーグであるブンデスリーガが何をしているのかをきちんと知りたい、それもプロクラブの中から見たいと思ったのです。そのクラブは、自分の古巣であるフォルトゥナしかない。僕はもう一度ここで自分の人生を賭ける決心をしました。

出典: Pixabay CC0

トップチームは、まだ3部リーグに所属していた当時のフォルトゥナ。そんなフォルトゥナの中に、日本人初の「フロントスタッフ」というポジションを作り、経営側からチームをサポートして、フォルトゥナを1部リーグに昇格させる、それまではデュッセルドルフに滞在し続けることを “勝手に”決め、それまでは帰国しないという覚悟をしました。それは、同じ2006年ドイツワールドカップで惨敗し、自信を喪失していた日本サッカー界に、将来貢献できる存在になりたい、という思いにも支えられてのことでした。

何の後ろ盾も保証もない中、誰も踏み入れたことのない領域への新たな挑戦の始まり。スポーツマネジメントという僕のセカンドキャリアについては後半に続けます。

******************
瀬田元吾氏
瀬田元吾氏
1981年東京都生まれ。学習院中等科、高等科を経て筑波大学体育専門学群卒業。卒業後、群馬FCホリコシなどを経て2005年に渡独。選手としてプレー後、2008年よりフォルトゥナ・デュッセルドルフにフロント入りし、日本デスクを設立。日本人向けの「フォルトゥナ通信」の発行や、日系企業とのスポンサー契約、日本人選手サポートを手掛けている。2014年にはサッカーを中心としたスポーツ活動を通じて「日独の架け橋」となることを目標としたSETAGS UG/セタークス有限責任株式会社を設立。後にフォルトゥナ・デュッセルドルフの⽇本での代理店としての権利を取得。2015年からはU19デュッセルドルフ国際大会の日本デスクを担い、さらに2018年からはU19デュッセルドルフTOYO TIRE CUP大会のアドバイザーも担当。ドイツプロクラブで働く⽇本⼈スタッフの視点から講演、セミナー、サッカー解説、TV出演など、業務は多岐に渡る。2015年4⽉にはドイツの永住権を取得。著書に「ドイツサッカーを観に行こう」(三修社)、「頑張るときはいつも今」(双葉社)がある。

(Interview und Text von Naoko Okada)