国立研究開発法人 情報通信研究機構 主任研究員
長井志江(ゆきえ)氏 

2005年、ほんの少しだけ、ドイツの長い冬にも終わりを感じられる2月のことでした。「君、海外で研鑽を積みたいんだって? 1年間のポストをあげるよ。ビーレフェルト大学に来ない?」と、当時の副学長ゲルハルト・ザゲレル教授 (Prof. Dr.-Ing. Gerhard Sagerer) から思ってもみなかったポスドクのオファーをいただいた日のことを、私は今でも鮮明に覚えています。

ビーレフェルト大学メインビル群; 出典: © Facebook/StudyingAtBielefeldUniversity

当時、ビーレフェルト大学で開かれていたロボティクスのインターナショナルワークショップに講演者の一人として参加していた私は、初日が終わって、あるポスドクの方とバンケット席で「いつかは海外で1年ぐらいの経験を積みたいですよね。」という、ごくごく一般的な会話を交わしていました。その話がザゲレル教授、今のビーレフェルト大学総長の耳に届いて、すぐに申し出てくださったというわけです。

現ビーレフェルト大学総長ゲルハルト・ザゲレル氏(左)大学の最上階にある図書館にて; 出典: © Universität Bielefeld

ビーレフェルト市はノルトライン=ヴェストファーレン (NRW) 州東部に位置するオストヴェストファーレン・リッペ地方 (OWL: Ostwestfalen-Lippe) の最大都市。デュッセルドルフから北東に150km離れた、ドイツのほぼ中央部に位置するOWLには、日本でも掃除機や白物家電で著名なミーレ社(Miele)や、世界で初めてベーキングパウダーを発明し、ドイツで最も有名な製菓材料企業に数えられるドクター・エトカー社(Dr. Oetker)、システム家具のヘティヒ社(Hettich)など、世界を牽引する有力企業が多く存在しています。

出典:  Wikipedia CC BY-SA 3.0

さらに、国際競争力強化のためにドイツが国を挙げて取り組んでいる、産業クラスター形成プロジェクトの一つ、「it’s owl: intelligent technical systems OstWestfalenLippel」や、国内の他の大学より群を抜いて推進され、その成果も顕著なビーレフェルト大学の学際研究によって、近年では知的分野の牽引役としても注目されているOWL。

出典: © Region Ostwestfalen-Lippe

ビーレフェルト大学は、1969年の創立時から、異なった学問領域の連携をもとにした研究開発手法である学際研究を行ってきました。その意思が創立当時からあったことが、キャンパスの設計上からも見て取ることができます。例えば、多くの学部が入っているメインの建物は、地上階のホールでつながっていて、そのホールには図書館や情報センター、学食、売店など、人が集まる施設が集約されています。つまり、異なる学部間の人的交流が日常的に行われる物理的な“仕掛け”がされているというわけです。

ビーレフェルト大学メインビルにある大ホール内。専門の域を超えた自由闊達な議論が交わされている; 出典: © Facebook/StudyingAtBielefeldUniversity

教授陣も柔軟な考えを持つ若手が多く、異分野の研究者へ敬意を持ち、相手の研究分野を理解しようと積極的。その“態度”は学生たちにも及んでいて、キャンパス内は自分の専門だけに捉われない自由な知的好奇心で満ち溢れています。

出典: © NRW Japan

当時、日本の研究機関ですでにロボティクスや認知発達、神経科学などの学際研究を進めていた私にとって、ビーレフェルト大学はまさに「次の一歩」を踏み出すに相応しい環境でした。突然のビーレフェルト大学での博士研究員オファー。心の準備は全くなかったのですが、ザゲレル教授からのオファーを喜んでお受けすることにしました。

人口約33万人の中大規模都市ビーレフェルト; 出典: flickr/fabian-felix CC BY-SA 2.0

約1年後の2006年4月、私のビーレフェルト生活が始まりました。海外で生活するなら、観光客や日本人もあまりいない、大きすぎず小さすぎない都市で、どっぷりと現地の生活を味わいたいと、期待に胸を膨らませていたのですが、到着するやいなや大変なショックを受けました。

日曜日だったその日、店はどこも閉まっていて、路上を行き交う人々も疎ら。まるで“ゴーストタウン”のように静まり返っている街に驚愕したのです。すごい場所に来てしまったな、と。こういった光景を目にするのはドイツではビーレフェルトだけではないことをすぐに知ることになるわけですが・・・。

Image Photo; 出典: flickr/Eleleven CC BY-SA 2.0

とにかく自炊が苦手で、食事にはほとんど気を使わない私にとって、出来合いの物がないばかりか、買い物の時間や曜日まで制限されている状況は間違いなく“第一関門”を意味していました。しかし、食べずには生きていけないので、否応なしに自炊するようになり、おかげで以前とは比較にならないほど“家庭的”な暮らしをするようになりました。

親友クラウディアと。2009年の帰国直前に二人で訪れたハンブルグで; 出典: © 長井志江氏

大学での生活もとても充実していました。何よりも心強かったのは友人クラウディアの存在。きっかけは、私の下がり気味の口角で、不機嫌に見えるのか憂鬱に見えるのか、同じ研究室に所属していたクラウディアは、「何か悲しいの?怒っているの?」といつも声をかけてくれました。

すぐに親友関係になった私たちはプライベートでも多くの時間を共に過ごすようになりました。ゆっくり時間が取れそうな日があると、彼女はきまって私を外へ連れ出しました。よく出かけたのがビーレフェルトのハイキングコース。噂には聞いていましたが、ドイツ人はハイキングや散歩など、本当に歩くのが好きですよね。

最高地点が海抜約464mのトイトブルクの森; 出典: © Teutoburger Wald Tourismus / Andreas Hub

中低山地“トイトブルクの森”(Teutoburger Wald)の近傍にあって、周辺には丘陵地帯が広がっているビーレフェルトには、ドイツで最も美しい高地ハイクコースにも数えられる山歩きコースがいくつもあります。

ハイクコースによって様々な風景を楽しめるトイトブルクの森; 出典: Pixabay CC0

長年、研究室にこもってばかりいた私にとって、アップダウンも多く、道なき道をひたすら歩く、このトイトブルクの森ハイキングコースはかなりキツイものでした。最初の頃は、クラウディアについていくのがやっとで、翌日は間違いなく筋肉痛におそわれる足と腰。

周りの景色を楽しむ余裕も、初めはなかなかありませんでした。しかし、回を重ねるごとに、豊かな自然の中を歩く爽快感や目的地までたどり着いたときの達成感を味わえるようになりました。

ビーレフェルト市のランドマーク、シュパレンブルク城; 出典: Pixabay CC0

特に今でも忘れられない光景が、市内の中心部にあって、私たちのハイキングコースの折り返し地点でもあったシュパレンブルク城(Sparrenburg)から見るビーレフェルトの街とその近郊の美しいパノラマ。約180メートルの高さに聳えるシュパレンブルク城は、13世紀半ばに、 ビーレフェルト市とトイトブルクの森を通過する重要な街道を護るために築かれた要塞です。

シュパレンブルク城からはビーレフェルトの街とその近郊を見渡すことができる; 出典: flickr/Jan Gosmann CC BY-NC-ND 2.0

当時からビーレフェルトのランドマークであり、毎年7月には、地元住民も中世の衣装を身にまとって参加する騎士祭「シュパレンブルク祭」(Sparrenburgfest)が行われます。シュパレンブルク城を吹き抜ける爽やかな風を胸いっぱいに吸って、クラウディアと共にたわいもない雑談を交わす小休止。ハイキングの醍醐味ですね。

毎年7月に開催されるシュパレンブルク祭; 出典: Facebook/Bielefeld.Jetzt

日本に帰国して9年になりますが、今でもよく歩きます。ハイキングに出掛けるまでの時間はなかなかありませんが、通勤の道をわざわざ遠回りしたりして、30、40分かけて研究室に通っています。周りにはビーレフェルトとはだいぶ異なる住宅地が並び、そして何よりクラウディアが隣にいませんが…。当時の思い出はそのままに、ひたすら歩いています。

長井 志江(ゆきえ)氏
1974年群馬県生まれ。1997年、青山学院大学理工学部機械工学科卒業。2004年、大阪大学にて博士号(工学)取得。情報通信研究機構けいはんな情報通信融合研究センター専攻研究員(2004年-2006年)、ビーレフェルト大学テクノロジー学科・認知ロボティクス研究所でのポスドク研究員(2006年-2009年)、大阪大学大学院工学研究科特任准教授(2009年-2017年)を経て、現在、情報通信研究機構脳情報通信融合研究センター 主任研究員、ビーレフェルト大学CITEC 客員教授、大阪大学大学院工学研究科 招へい准教授。ロボカップジャパンオープン2015人工知能学会賞 (2015年5月)、第30回人工知能学会全国大会 全国大会優秀賞 (2017年5月)、Best Student Paper Award of the 5th International Conference on Human-Agent Interaction (2017年10月)など、受賞歴多数。2016年より JST CREST「認知ミラーリング」の研究代表者も務める。

(Interview und Text von Kyoko Tanaka)