情報科学芸術大学院大学(IAMAS)
学長 三輪 眞弘氏

1986年、27歳でデュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽大学(Robert-Schumann-Hochschule Düsseldorf:RSH)に転入学した僕は、その後もさらにコンピューター音楽を追求していきました。

単なるコンピューターを使った音響合成ではなく、コンピューターを介した音楽表現と作曲手法を模索していたのです。大学の備品だったフェアライト社(Fairlight)のボイストラッカー(Voicetracker)というピッチ検出装置に昼夜を問わず向き合い、実験を重ねたこともしばしば。

出典: © Fairlight US

目指すものもはっきりしてきました。それはライブ演奏とコンピューターシステムのインタラクティブな作品の創造。いくらテクノロジーが発展しても、録音された音波だけを聞くのではなく、実際に生の音を身体で感じ取ることこそ「音楽体験」だと考えるようになったからです。そこにはロックバンドという僕のルーツも関係しているのかもしれません。

「赤ずきんちゃん伴奏器」を実験中。デン・ハーグの王立コンセルバトワールで: 出典: © Masahiro Miwa

こうした探求を重ねて出来上がったのが、卒業作品の「赤ずきんちゃん伴奏器(Rotkäppchen-Begleiter für Mezzosopran und computergesteuertes Klavier)」でした。メゾソプラノ歌手が発する声の高さや強弱などの情報を「赤ずきんちゃん伴奏器」と名付けられたプログラムが解析して、同時並行的に自動演奏ピアノによって伴奏を生成していくという作品です。

1988年のライン音楽祭が開かれたデュッセルドルフ旧市街にあるネアンダー教会; 出典: © www.neanderkirche.de

この作品は大学の教師陣からばかりでなく、外部からも高い評価を得ました。卒業作品として発表されて半年もしないうちに公演の機会を得たライン音楽祭(Rheinisches Musikfest 現:WDR-Musikfest)で大好評を博したことから、翌月にもケルンの日本文化会で行われた「日本音楽週間」で再演。

「日本音楽週間」が開かれたケルン日本文化会館; 出典: © Facebook/Japanisches Kulturinstitut

それからというもの、演奏するたびに再演依頼が来て、舞台はNRW州だけにとどまらず、ベルリン、ハンブルク、さらにはオランダ、ベルギー、ニューヨークと海外にまで拡がり、気がつけば21回の再演を行っていました。

そして、1989年には同作品で、作曲家の登竜門として知られる「入野賞」を受賞。母校のロベルト・シューマン音楽大学からも、コンピューター音楽(アルゴリズミック・コンポジション)の非常勤講師として迎えられました。

ケルン日本文化会館のホールでリハーサル。舞台上には、「赤ずきんちゃん伴奏器」の試作段階から再演、CDレコーディングまで付き合ってくれたロベルト・シューマン大学声楽科のアンゲラ・ホメス(Angela Hommes; 出典: © Masahiro Miwa

大学を卒業してからは、公演や非常勤講師の仕事をこなしながら、ほとんどの時間をケルンでの活動に費やしました。ケルンは言ってみれば現代音楽のメッカであり、電子音楽が生まれた場所。

ケルンの街を上空から; 出典: flickr/Hendryk Schäfer CC BY 2.0

すでに1951年、西ドイツ放送局(Westdeutscher Rundfunk Köln)内に世界で初めて電子音楽スタジオが作られました。二代目所長カールハインツ・シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen)の時代には、数々の電子音楽の名作が誕生。このスタジオは、ラジオ・ドラマなども含む、芸術表現としての「音響芸術(akustische Kunst)」の中心的役割を担っていたのです。

カールハインツ・シュトックハウゼン。1994年、WDR電子音楽スタジオにて; 出典: Wikipedia CC BY SA 3.0

ケルンの電子音楽カルチャーは、WDRの電子音楽スタジオだけでなく、様々な媒体や機関の、人的・物的・思想的な絡み合いによって成り立っていました。例えば、出版社の「Feedback Studio Verlag」は、ヨーロッパ最古の名門音大であるケルン音楽大学(Hochschule für Musik und Tanz Köln)の作曲科電子音楽専攻の教授で、シュトックハウゼン氏の愛弟子でもあったヨハネス・フリッチュ(Johannes Fritsch)教授を中心に、作曲家たちによって創設されたものです。実際に僕の初期の作品もここから出版されました。

出版社「Feedback Studio Verlag」から出版された「赤ずきんちゃん伴奏器」と「夢のガラクタ市」; 出典: © Masahiro Miwa

さらに、同じ建物内のコンピューター音楽推進団体「Gimik Initiative Musik und Informatik Köln」でも様々な仕事をこなしました。スタジオ内での作曲活動から、団体の運営まで。

Feedback Studio Verlagのスタジオ内で; 出典: © Harald Fronzeck (mit Genehmigung)

「Gimik」はケルンの電子音楽カルチャーの中でとても慕われていた存在だったので、世界的にも有名なバンドCANのベーシストだったホルガー・チューカイ(Holger Czukay)- 彼もシュトックハウゼンに学んだケルン音大の卒業生 – が遊びにきたり、テクノミュージックの元祖のような存在であるクラフトワーク(Kraftwerk)のメンバーとも親交があり、電子音楽を愛する者たちが出入りする場所でした。

CANのメンバー。左から2番目がホルガー・チューカイ。; 出典: © Facebook/Can

そして、当時の「Gimik」の代表であり、ケルン音大でコンピューター音楽の授業を担当していたのがクラレンス・バルロ氏(Clarence Barlow)です。

ケルン音楽大学のキャンパス; 出典: © Facebook/Hochschule für Musik und Tanz Köln

アルゴリズミック・コンポジションのパイオニアの一人で、世界を代表するコンピューター音楽作曲家の一人でもあるバルロ氏は、ケルン音大の学生でもない僕を愛弟子のように可愛がってくれ、講義などの合間に、作曲上のアドバイスを惜しみなく与えてくれました。作曲家として誰よりも尊敬し、人間的にも一番影響を受けた人物です。

アルゴリズミック・コンポジションのパイオニアの一人であるクラレンス・バルロ氏; 出典: © Kaske Stiftung (mit Genehmigung)

ほぼ毎日のように通っていた、市民的でゆるい雰囲気が漂うケルン。音楽活動以外で、今でも懐かしく思い出されるのは、僕が勝手に名付けた“トルコ通り”のこと。正式名はヴァイデンガッセ(Weidengasse)という通りですが、ケルン中央駅の裏手にあるトルコ人で賑わう道で、安くて美味しいインビス(Imbiss)やレストランが立ち並ぶ、言わばトルコ料理の激戦区。ケルンで有名なトルコ料理店のドイドイパラスト(Doy Doy Palast)もマンガルレストラン(Mangal Restaurant) もこのヴァイデンガッセにありました。

ケルンの有名トルコ料理店、マンガルレストランのケバブ; 出典: © Facebook/Mangal Restaurant

日本食が恋しくなったときには、デュッセルドルフで日本の食材が豊富な大洋食品松竹に繰り出し、材料を調達。駐在員の方からもらった炊飯器でカルフォルニア米を炊き、香りが少ないスモークサーモンなどでお寿司を作ったりもしました。

日本の食材が豊富なスーパーマーケット、松竹; 出典: © Facebook/Shochiku Düsseldorf

現代音楽や電子・コンピューター音楽という分野では何と言ってもケルンが有名でしたが、美術の世界では、クンストアカデミー(Kunstakademie Düsseldorf)のあるデュッセルドルフが中心でした。

当時、このアカデミーで教鞭をとる世界的なアーティストたち(教授陣)の下で学ぶべく日本人の若い作家たちがデュッセルドルフに集まっていました。そしてデユッセルドルフに住んでいたぼくには、今や超有名になった美術作家の奈良美智さんなど、このクンストアカデミーの友達がたくさんいました。

1762年創設のクンストアカデミージュッセルドルフ(Kunstakademie Düsseldorf); 出典: Wikipedia CC BY 3.0 

その他にもダンス・舞台芸術の分野では、あのピナ・バウシュが教えていたエッセンのフォルクヴァング芸術大学も近くにあります。東京やパリのようにすべての事物が1都市に集中するのではなく、個々の都市がそれぞれの個性を持ち連携しながらNRW州全体として豊かな文化を育てている環境があったからこそ、僕は芸術が社会の中で果たす意味を広く学ぶことができたのです。

ライン川沿いにそびえ立つ、高さ234メートルのラインタワー。展望台からはライン川とデュッセルドルフ市街が一望できる; 出典: flickr/Chris Yuncker CC BY 2.0

僕らはいつも夢を語り、前を見ていたような気がします。あの頃のドイツは貧乏アーティストにとって住みやすい国でした。まだ貧乏でも、成功していなくても、そして外国人であっても、惨めな思いを感じることなく、前を向いて暮らせる環境。それはおそらく、ドイツ社会がアーティストを尊敬し、大切にしていることとも関係しているのでしょう。

アムステルダムのSTEIM(研究所)での「赤ずきんちゃん伴奏器」再演。歌手はアンゲラ・ホメス(Angela Hommes); 出典: © Masahiro Miwa

日本では、戦後のアメリカ的な価値観の中で、音楽はエンターテインメントとして「売れること」がすべての価値基準という「商品」と化してしまいました。しかし、ドイツでは芸術には哲学的社会的役割が託されている。その役割とは、人間に対する普遍的な世界観の提示です。

デュッセルドルフの街のオアシス。広大で緑あふれるツォーパーク(Zoopark); 出典: © Masahiro Miwa

ドイツで培われた僕の芸術の尺度。それは、客を喜ばすための娯楽でもなければ、自己満足的な「芸術のための芸術」や「美の追求」でもない。

日本では、よく僕の作品は「シリアスだ」とか「ユーモラスだ」と評されることが多いのですが、実はそれは僕にとって最高の褒め言葉なのです。「作曲」という行為は実に政治的で切実な行いであり、別の次元からの相対的な観察はユーモアをもたらします。常識を一旦離れ、世界を違った視点から提示する。芸術家たるや、目指すべきものはここにあると思うのです。

デュッセルドルフ自宅のスタジオで; 出典: © Masahiro Miwa

日本社会には、平均的な「普通」の見解やルールがあって、そこからはみ出さないように生きている「普通の人」が大勢います。ドイツには、日本でいう「奇人変人」しかいない。誰もが個性的で、自分の考えを持ち、それを主張し、実際に行動に移す。誰もが「奇人変人」でいられる社会は、自分が自分らしくいられる社会でもあります。

僕を高校時代の精神的な危機から救い、一人の人間として育て、芸術家として対等に扱ってくれたドイツ。僕を信頼し深く愛してくれた、素朴で温かいNRW州の友人や恩師達。日本に帰国して21年経った今でも、僕には感謝の気持ちしかありません。

(Interview und Text von Kyoko Tanaka)