新日鉄住金エンジニアリング (株)
代表取締役社長 藤原 真一 氏
僕にとってドイツは幼い時から特別な存在でした。実は父が医者だったので、家の中でも日常会話の端々にドイツ語が取り込まれていたんです。掛け声はアイン・ツヴァイ・ドライ(Ein・Zwei・Drei)、食事はエッセン(Essen)、ちょっと汚い話ですが、ハルン(Harn : 小便)、コート(Kot:大便)といった具合に。

大学入学後の最初の夏休みに“念願の”ドイツ留学を果たしました。5週間だけの外国人留学生用のドイツ語サマープログラムでしたが、いろいろな面で衝撃を受けました。留学先はボン大学、時は1973年。当時のボンは西ドイツの首都でしたが、日本の東京とは正反対。人口は20万人ほどで、こぢんまりとしていて、緑あふれる心地よい都市でした。

ライン川沿いに広がるボンの街; 出典: flickr/Ralf St. CC BY-ND 2.0

僕たち留学生は、ボンからライン川を約20kmほど南に下った、市街から市電で30分ほどのバートホンネフ(Bad Honnef)と西ドイツの初代連邦首相、コンラート・アデナウアー(Konrad Adenauer)の生家があるレーンドルフ(Rhöndorf)の中間に位置する学生寮に滞在しました。

木組みの家並みが続くバートホンネフ; 出典: flickr/Jean & Nathalie CC BY 2.0

ドイツ最古の自然保護地域というジーベンゲビルゲ(Siebengebirge : 7つの山地)の麓にあるバートホンネフは、ワイン畑も広がる、別名「ラインのニース」とも呼ばれる風光明媚な街で、同じ敗戦国なのに西ドイツはなぜこんなに美しいのだろうとショックを受けました。

ジーベンゲビルゲの展望名所Drachenfels(ドラッヘンフェルス)から; 出典: flickr/Arno Hoyer CC BY 2.0

それに加えて、大学内の雰囲気も日本のものとは全く異なるものでした。当時の日本の大学にはあまり留学生はいませんでしたが、ドイツには、中東やアメリカなど様々な国から留学生が来ており、とてもオープンで知的な雰囲気が漂っていました。このことも東京の大学に入ったばかりの僕には、かなりの衝撃でした。

ボン大学のキャンパス; 出典: flickr/Rubén Vique CC BY 2.0

5週間という短い期間ではありましたが、幼い頃からの憧れの国だったドイツに足を踏み入れ、良い意味での衝撃を受けた僕は、就職にあたってもドイツとの関わりを意識しました。こうしてドイツへも社員の留学生を派遣していた新日本製鉄株式会社に入社。

2009年まで本社が置かれていた旧新日鐵ビル; 出典: Wikipedia Public Domain

入社7年後の1985年、そのチャンスは訪れました。希望していたドイツへの留学が現実味を帯びてきたのです。僕自身も中級(Mittelstufe)のドイツ語能力証明書(Goethe-Zertifikat)を取得したり、留学候補先のボーフム大学(Ruhr-Universität Bochum)の担当教授と面談をしたり、と着々と準備を進めました。心はまるで昔の恋人にでも会いに行くような気分で、あとは正式な手続きが取られるのを待つばかりでした。

Image; 出典: flickr/Marcel André Briefs CC BY-SA 2.0

ところが、手続き間際になって、直属の上司が変わったんです。社員留学は所属部署の責任者による推薦制度だったので、上司の推薦が必須でした。その新しい上司は、僕の性格を見越してか、ドイツではなく、カリキュラムがびっしりと詰まっていて全くサボれないアメリカのビジネススクールに行くべきだと言い出しました。こうして留学先はドイツからアメリカに変更となってしまったんです。

その後、ドイツへ行けるチャンスはなく、待てども待てども、僕にやってくる仕事はすべて英語圏のものばかりでした。ドイツ語の力もまさに錆びついてしまっていた2001年、いきなり欧州所長の辞令が言い渡されました。思わず「なんで僕なんですか?」と言ってしまったぐらい晴天の霹靂で、嬉しさというより戸惑いを感じたぐらいです。

デュッセルドルフを上空から; 出典: flickr/brewsbooks CC BY-SA 2.0

仕事をしていた妻を説得し、4歳と2歳の子供を連れて、約30年ぶりのドイツへ飛び立ちました。居を構えるデュッセルドルフ市内に到着したころから、「ああ、この雰囲気だったよね。」という昔の懐かしい想いと、ようやく本格的にドイツで仕事ができる、生活ができるという喜びがふつふつと湧いてきました。

Königsalle; 出典: flickr/Lin Mei CC BY 2.0

実際にデュッセルドルフに住んでみると、現地住民から注がれる日本人への信頼感には本当に驚きました。デュッセルドルフの日本人コミュニティーというのは、1960年代頃から、実はまず当社をはじめとする製鉄会社が進出して、そこに銀行や商社も追随したことで、徐々に日本企業も増えて大きくなっていったんですが、デュッセルドルフ市民を前に、日本人は奢ることなく、つねに「良き市民」であろうと、秩序を尊重しながら現地に溶け込む努力を続けてきました。

 

Japan-Tag 2016; 出典: flickr/mister_washu CC BY-NC-ND 2.0

だから受け入れる側も、長年の信頼や友好関係を通して、いつの日か日本人を「アウスレンダー(Ausländer)」ではなく、「ヤパーナー(Japaner)」と呼ぶようになり、好意を寄せてくれるようになったのです。

デュッセルに到着して、外国人局(Ausländerbehörde)に就労ビザを取りに行った時もびっくりしました。

Image; 出典: Wikipedia Public Domain

すでに日本人用に事務的な準備が整っていて、30分ほどでパスポートにビザが貼られて「Alles in Ordnung!」と言われて、手続きは終了。他の都市ではそうはいかないと聞きます。

Ratinger Straße, Altstadt; 出典: flickr/Citanova Düsseldorf CC BY 2.0

暮らし始めてからも、生活はとても快適でした。企業によって違うかもしれませんが、我々の仕事というのは欧州全体をカバーしているので、頻繁に出張があるんです。僕の場合も1年のうち100日ぐらいは出掛けていました。妻と小さい子供たちを残して家を空けるというのは、出かける側にとっても残される側にとっても、不安でストレスになることです。

Rheinuferpromenade; 出典: flickr/Citanova Düsseldorf CC BY 2.0

おそらくドイツの他都市だったら、僕らもそう感じたことでしょう。でも、デュッセルでは安心して家を空けることができました。日本人コミュニティーが磐石で、何かあったらすぐに相談できる体制ができていて、頼れる人たちが大勢いるからです。これはものすごく大きなメリットでした。

シュトックム地区を走る市電; 出典: flickr/Sludge G CC BY-SA 2.0

我が家はデュッセルドルフの中心街から少し離れた、メッセなどがあるシュトックム(Stockum)という、日本人もほとんど住んでいない地区にありました。そのため最初の半年間ぐらいは、特に妻が苦労していましたが、車の運転に慣れたり、ドイツ語会話の勉強を始めたりする中で、ドイツでの生活を楽しんでくれるようになりました。

Image; 出典: flickr/Steffen Geyer CC BY-NC 2.0

子供たちも、半分以上が僕のわがままだったんですが、日系の幼稚園でなくローハウゼン(Lohausen)にある現地のキンダーガーデンに入れたこともあり、最初はドイツ語がさっぱり分からなくて、殻に閉じこもっている様子で僕たちも心配しましたが、園の先生たちがとても上手に優しく接してくれて、3、4ヶ月もすると、周囲とも少しずつコミュニケーションがとれるようになりました。

幼稚園のお友達の家にて; 出典: © 藤原真一氏

次第に息子も娘も仲のよいお友達ができて、幼稚園が終わってからも、お友達とたくさん遊ぶようになりました。

親友、ニーナちゃんと; 出典: © 藤原真一氏

成人になった今、ドイツ語はすっかり忘れてしまったようですが、印象深かった出来事はしっかり覚えているようです。例えば、キンダーガーデンのクリスマス劇(Krippenspiel)については、今でも沢山のことが記憶に残っているようで、時折、当時の様子を懐かしげに話してくれます。

キンダーガーデンでのクリスマス劇; 出典: © 藤原真一氏

30年ぶりに叶ったドイツでの生活。家族もそれぞれが大小の困難を乗り越えてくれていたので、僕も安心して現地のスポーツに直接触れてみたくなり、ライン川支流のルール川でボートを漕ぐようになりました。後編ではぜひその話題から話を続けさせてください。

藤原真一氏
1954年岡山県生まれ。岡山県立岡山朝日高等学校を卒業。1978年、東京大学法学部卒業、新日本製鉄株式会社(現・新日鉄住金)入社。1985年、ハーバード大学ケネディスクール(Harvard Kennedy School of Government, KSG) 留学。93年原料第二部鉱石第二室長、2001年欧州事務所長に就任。2010年参与、2011年執行役員、2013年常務執行役員、2015年、新日鉄住金エンジニアリング株式会社代表取締役社長に就任。